法音院(泉涌寺塔頭)

前記事の泉涌寺総門前にある即成院の後、門をくぐって坂の下の方の寺院から順に拝観しました。

法音院は、少し上がると右側にあります。

 

法音院の山門です。

山門の脇に掛かっている境内図(ホームページと同じ)がとても分かりやすかったです。

 

 

こちらに泉涌寺七福神の寿老人が祀られています。健康長寿・諸病平癒・富貴繁栄の御利益があります。

 

 

本堂
本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)が安置されています。あらゆる困難・苦難・災難から救ってくださる観音様で、一面三眼八臂のお姿です。
 

 

本堂と書院の間から綺麗なお庭が見えていました。

 

 

鎮守社 三社明神
緑あふれる境内にあって、この真赤なお社がものすごく目をひきました。

 

法音院(ほうおんいん)
鎌倉時代末期嘉暦元年(1326)無人如導宗師によって創建されるが、応仁の乱により焼亡。
その後、江戸時代の初期 寛文4-5年(1664-1665)幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得、覚雲西堂の手により現在の地に再建される。書院は伏見桃山城の遺構の一部である。
現在の本堂は英照皇太后(孝明天皇女御)御大葬の御須屋(御陵の上に設けた仮屋)を賜ったもの。
本尊は不空羂索観音。洛陽第三十三観音霊場第(⇒ウィキペディア)二十五番札所。泉山七福神巡り(⇒ウィキペディア)では7番「寿老人」を祀る。

 

広くはないですけど、気持ちの良い境内でした。鹿の像は神様のお使いでしょうか?可愛かったです(´▽`)

 

法音院のHPはこちら

Googleマップ

 


即成院(泉涌寺塔頭)

泉涌寺の塔頭巡りをしましたので、しばらく続けて書きます。

 

まずは泉涌寺総門より手前に位置する即成院です。

 

山門です。参道の左側(北側)にあります。
屋根の上の鳳凰は創立者の橘俊綱(たちばなのとしつな)が、父 藤原頼通が建立した宇治平等院の鳳凰と向き合う形にさせました。当初は伏見桃山にありましたが、現在の場所に移った今日でも平等院の鳳凰と向き合っているそうです。

 

 

本堂です。
こちらで、近年では仏像のオーケストラと呼ばれている重要文化財「阿弥陀阿如来と二十五菩薩」を拝観しました。その大きさと荘厳な雰囲気は圧倒的で、暫し無言で見とれていました(一人の拝観なので喋っていたら危ない人だけど)

本堂に上がらせていただく拝観料は500円でした。

 

 

那須与一の墓所です。(本堂の後ろの方のガラス戸から、このお墓まで渡り廊下で続いていました。)
源平合戦屋島の戦いで扇の的を射て、源氏を勝利に導いた那須与一は合戦前に突然の病に倒れました。そして伏見で療養中に即成院の阿弥陀様を熱心に信仰されたそうです。その霊験で病も癒え、屋島の戦いではすばらしい功績を上げたとされています。与一はその後出家し、合戦で亡くなった方々の菩提を弔い、即成院で生涯を終えたと伝えられています。
お墓の形が何気に加茂茄子!?

 

即成院(そいくじょういん)
山号は光明山。本尊は阿弥陀如来。
宇治平等院を建立した藤原頼通の子で歌人 橘俊綱(たちばなのとしつな)の創建。明治の廃仏毀釈の影響でいったん廃寺となり、明治32年(1899)に泉涌寺塔頭の法安寺に吸収合併された後、明治35年総門近くの現在地に移された。昭和16年(1941) 即成院へと寺号が復活する。
本堂内陣の本尊 阿弥陀如来と二十五菩薩は、寛治8年(1094)に作られたものと言われ(一部江戸時代の補作)、国の重要文化財。
また、那須与一ゆかりの寺としても知られている。

泉山七福神巡り(⇒ウィキペディア)では1番。「福禄寿」が祀られています。

 

即成院のHPはこちら

Googleマップ

 


三嶋神社 長〜い歴史のあるとても小さな神社。

五条通と七条通りの間くらいにある渋谷通り(シブタニ通りね。シブヤじゃないのよ)を東大路から東に上って300mくらい、左(北)側のマンションの裏手にある小さな神社です。

前回記事の「香雪院」からは渋谷通を挟んですぐ近くです。

 

マンションの西側の狭い道を入るとすぐに三嶋神社の幟(のぼり)が見えます。

 

 

幟があるのは道路の右側、その向かい(道路の左側)が社務所で、しめ縄が張られていました。

 

 

社務所に沿って曲がると手水舎があります。

 

 

神社は道を挟んで向かい側、先ほどの幟(のぼり)があるところです。(この細長い敷地は鰻の寝床?)

 

 

社殿
主祭神は、大山祇大神(おおやまづみのおおかみ) 天津日高彦火瓊々杵尊(あまつひだかひこほのににぎのみこと) 木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の三社。

 

 

絵馬
ご祭神である大山祇大神のお使いが「うなぎ」だということです。2匹のうなぎが描かれたものは子授け、3匹描かれたものは安産祈願の絵馬だそうです。

鰻の供養祭である「鰻放生大祭」が三嶋神社の祈願所がある瀧尾神社(三嶋神社の南西約1,2km)で毎年10月26日に行われています。

 

 

揺向石(ようこうせき)
かつて牛若丸が参籠した際、夢の中に現れた翁より「早々に奥州に下るべし」との託宣を聞き、夢より覚めて再拝し翁の立ちどころを見ると、この大きな石があったという逸話があるそうです。この石は揺向石と言われ、妊婦が男子の授けを祈願し、石に手を触れてお腹を撫でると牛若丸のような立派な男子が授かると伝えられています。

 

 

鳥居上の神額
やっぱり鰻がいるのね。三嶋の三の字も鰻だなぁ。
 

三嶋神社
平安時代後期 子宝に恵まれないことを憂いていた後白河天皇の中宮・平滋子建春門院は子授けにご利益があるという三嶋神社に祈願し、皇子(後の高倉天皇)が誕生する。これを喜んだ後白河天皇がこの地に三嶋神社を勧請したのが始まりといわれる。
大変小さな現在の神社ですが、秋篠宮殿下が平成6年・15年と2度参拝されているそうです。

 

Googleマップ

 

また体調を崩してしまって、散歩は歩いて行ける範囲だけといういう言い付けを守ってます。乗り物に乗るようなら散歩とは言わないか・・。

 


香雪院 妙法院塔頭の尼院

「東山聖天尊」の石柱が建つ香雪院は、京都女子中学高校と付属小学校の間の道で渋谷通から南下したところにあります。東山七条の女坂(豊国廟参道)の入り口にも東山聖天参道の石標がありますが、あまり目立たないですね。
たま〜にこの道をを通ることもあったのに今までノーマークでした。ふと門の中をのぞいて見ると「ご自由にお参りください」の文字が見えましたので、それじゃぁちょっとだけと入らせていただきました。

 

山門。左に東山聖天尊の石柱が建っています。(良く見えないけど・・)

 

 

 

山門をくぐると右側に鎮守社と石仏さん達が並んでいました。

 

 

左手にあるこの門から更に中へ入らせていただきます。

 

 

門をくぐって左を見ると手水舎の奥にゾウさんの像。

聖天尊(歓喜天)は仏教の守護神である天部(インド古来の神が仏教に取り入れられて護法神となったもの)の一つで、象頭人身の単身像と抱擁している双身像の2つの姿の形像が多いということですので、それでここにゾウさんが居はるのかな?

 

 

石の鳥居の奥に弁天堂と本堂があります。

 

 

立派な鐘楼がありました。

 

 

手入れの行き届いた綺麗なお庭でした。

 

 

歓喜天が安置されている本堂です。

歓喜天は厨子などに安置され秘仏として扱われ、一般に公開されることは少ないそうですから、もちろん見ることは出来ませんでした。

 

 

弁天堂です。
両脇の板に弁財天十五童子出自由来が描かれていました。(十五童子は帰ってから確認しようと撮影したのに、ピンボケで良く分からなかった^^;)

 

 

弁天堂で頭上に目をやるとこんなに素敵な花天井でした。
 

香雪院

山号は宝山、天台宗の尼寺で妙法院の塔頭。本尊は聖天尊。
寛保年間(1741-1743) 妙法院23世・尭恭親王が、持仏の聖天像(慈覚大師が唐から持ち帰ったといわれる)をお祀りするための堂を妙法院の丑寅の方角にあたる場所に建て、庵を結んだことに始まる。江戸時代後期より衰微したが、明治初期1877年頃、初代・中島良湛尼以来、尼院として復興する。

1940年に香雪院を継いだ3世・中島湛海尼は、天台宗の尼僧初の最高位 大僧正となられた方だそうです。

 

Googleマップ

 

優しい雰囲気の素敵なお庭に、ちょっとだけと思いながら随分長居をしてしまいました。ところどころに美しい葉が茂っている蓮鉢がありましたから、お花の咲く季節になったらまた見に行きたいと思います。

 


勧修寺 広大な名勝庭園と豪華な襖絵!

随心院拝観後は、歩いて勧修寺まで移動しました。こちらも非公開文化財特別公開をしています。

 

観音堂

勧修寺と言えば、すぐに頭に浮かぶのがこの観音堂です。
昭和6年に再建され、観音堂または大斐閣とも呼ばれているそうです。

 

 

築地塀が続くこの参道も良い雰囲気です。

 

 

山門です。

 

 

宸殿
元禄10年(1697)に明正天皇(女帝)の旧殿を賜り、移築したものと伝わります。
中央の階段を上がると内部は書院造りで、左手の一段高い上段の間から、二の間・三の間と一列に並んでいます。
明治5年(1872)からの約5年間は、なんと勧修小学校の校舎・教室として使用されていたそうです。(宸殿造や書院造についてメッチャ学識豊富な小学生になったりして。)

 

宸殿の後ろに書院があります。
江戸初期 後西天皇の旧殿を下賜され移築したものと伝わりますが、明正天皇の旧殿という説もあるそうです。
内部は門跡の御座所で、まずは「次の間」から拝観しました。土佐光起の筆による「近江八景図」が描かれた襖絵を暫し鑑賞して奥の「上段の間」へ。「上段の間」には勧修寺棚と呼ばれる違い棚があり、襖絵は土佐光成(光起の子)の筆による「竜田川紅葉図」が描かれています。土佐派の絵師親子による豪華な共演でした。

 

 

南側(氷室池の方)から見て、宸殿(右)と書院が並びます。

 

 

五大堂

 

 

本堂
江戸前期霊元天皇より仮内侍所を賜り移築したと伝えられます。
檜皮の屋根が〜。昨年の台風21号のせいでしょうね。

 

 

平安時代の遺構とされる広々とした庭園を拝観しました。

広大な「氷室池」では、杜若と睡蓮がとても涼しそう。(引き籠っているうちに初夏になっていました。)

 

 

新緑も美しい。

 

 

氷室池から観音堂。

 

 

書院前庭の「勧修寺型灯籠」
水戸光圀公のご寄進で、雪見型をアレンジして創作されたそうです。もっと下の方まで見えないとユニークな形が分からない。でも私の身長ではこれが限界(´Д⊂ヽ

回りは地面を這うようにして枝を伸ばすヒノキ科の常緑低木ハイビャクシン (這柏槙)で、樹齢約750年ということです。(樹齢って言うと何だか背の高い木を想像しちゃうけど。)

 

修行大師尊像

 

 

 

 

 

 

 

勧修寺
真言宗山階派の大本山、山号は亀甲山。昌泰3年(900)に醍醐天皇が生母藤原胤子の菩提を弔うため創建された勅願寺。開山は奈良東大寺の承俊律師。寺号は醍醐天皇の祖父、藤原高藤の諡号をとって勧修寺とした。代々法親王が入寺し、格式を誇った門跡寺院。

庭園も本当にすばらしく、京都市の名勝に指定されています。京都市都市緑化協会のこちらのページに詳しく書かれています。

 

庭園内に「この先に行かれるのはご自由ですが、大いに危険」と書かれた札が下がっていました。私は一人で来ている高齢者ですし、人一倍体力にも運動神経にも自信が無いので、大いに危険を感じて遠慮しておきました。皆さんどんどんその先に行かれるのでちょっと羨ましかったです。

気になっていたので帰宅後ストリートビューを開くと、「この先」にちゃんと行けました(*´Д`)

 

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