阿弥陀寺 織田信長公本廟所

先月の散歩、未だに続きを書いてます。
鞍馬口通りから寺町を南下していましたら、「織田信長公本廟」の石碑が立つ阿弥陀寺の門が現れました。信長の墓所があることで私でも名前くらいは知っている阿弥陀寺です。あ、ここなんだ!と(勝手に)入らせていただくことにしました。しかし「阿弥陀寺」の名の寺院はすっごい沢山ありますので、この石碑が無ければ気が付かなかったでしょう(名前は知ってても場所は知らなかった(^^;)。

 

山門です。

門の手前左脇に、「織田信長公本廟」の石碑が立っています。

 

 

本堂です。
余り大きくはないけど落ち着いた雰囲気でした。御本尊は阿弥陀如来様。通常は非公開。
信長公と長男信忠の木造が安置され、毎年6月2日に行われる「信長忌」の時に公開されます。信長の像や肖像画の中では一番本人に似ているそうです。

 

 

本堂にかかる山号「蓮台山」の扁額。

 

 

庫裏です。
チャイルドシート付きの自転車が置いてあるところに、親しみが持てます(*^^*)

 

 

織田信長公本廟所

すごく豪華なお墓をイメージしていましたから、意外に地味なんだなぁって、そんな印象でした。でも、こちらで大切にお供養されているのですね。(墓地に一人でいるのが怖くて、早々に退散してしまいました。それほど誰もいなかったのです。もっとしっかりお参りさせていただけば良かったと反省。)

 

 

本廟所の案内板。

渡り廊下の下を通って墓地に出ます。この案内板が無ければ、30分はウロウロしていたことでしょう。

 

 

鐘楼です。

 

 

鎮守社です。

 

 

せっかくだから境内にこんもりと茂っていたススキも(何がせっかく?)

 

阿弥陀寺
天文24年(1555年)近江国坂本に玉誉清玉が創建したのが始まりとされる浄土宗の寺院。後に織田信長の帰依を得て、今出川大宮に移転した。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が討たれた際、清玉上人自ら現地に赴き信長の遺灰を持ち帰り、その後長男信忠の遺骨も二条御新造より拾い集めて埋葬したという。また、信長の家臣や本能寺の変の犠牲者大勢も葬り供養したとされる。
天正13年(1585)豊臣秀吉の都市計画によって現在地に移った。

 

5年前に拝観した大雲院にも織田信長・信忠の慰霊碑があることを思い出しました。正親町天皇の勅命により信長親子の菩提を弔うため、御池御所(烏丸二条南)に貞安上人が開山したということでした。
供養塔や慰霊碑が建つところは京都だけでもまだ数カ所あります。戦国武将ランキングで常に上位にいらっしゃる方ですから全国にはもっともっとあるのでしょうね。

それにしても本能寺も阿弥陀寺も大雲院も今は当時の場所に無いのですよね。秀吉さんの都市計画で。

 

Googleマップ

 


そろそろ渡って来てます?

一昨日、ほんとに久〜しぶりに鴨川を歩いていて(もちろん遊歩道です)、見つけました。私にとって今秋初めてのヒドリガモさん。

秋から春までの鴨川には色々な鳥が来て賑わうのです。前シーズンはちょっと忙しくて余り散歩もできなかったから、今回2羽のヒドリガモさんを見つけて嬉しかったな(*^^)v 。

スマホからのズームなので、画質は良くないです(T_T) 。それにこれでは、どこの川なのか池なのか・・・?鴨川です〜、松原橋付近。

Googleマップ

 


御霊神社 怨霊鎮魂の神社で、応仁の乱勃発の地。

先日のつづき・・って随分経っちゃってますけど。寺町を南下していましたら「御霊神社」を示す碑がありました。しかも上部に時計が埋め込まれていて、時間も教えて下さる大変親切な石碑です。御霊神社といえば応仁の乱が始まったという?・・この近くなんだ!(何十年京都に住んでるんや)とお参りさせていただきました。

 

西側正面の鳥居です。最初は南側の楼門を通りましたけど、やっぱり鳥居のある正面から入らないとね・・とこちら側に回りました。鳥居には菊の御紋が付いています。

鳥居の左側の足元に花御所八幡宮、鳥居右側数メートルのところに応仁の乱勃発地の石碑がありました。

 

応仁の乱勃発の地
かつては御霊の森と呼ばれ、広大な土地に樹木が鬱蒼と生い茂ったこの地で、文正二年(1467)畠山政長と家督を争っていた義就の合戦が起こったことが応仁の乱の始まり(その年3月に年号が応仁と改まりました)。初めは小規模だったものが細川氏・山名氏の勢力争いに発展し、将軍家の後継争いも加わって、10年以上にも及ぶグダグダな戦いを続け、京都の大半を焦土にしたっていうやつです。
ご当地ネタで京都で先の大戦と言えば応仁の乱って言うあれですね。私が今まで拝観したお寺さんなどの歴史を見ると、大抵どこかに応仁の乱により焼失というフレーズありました。

 

 

鳥居の後ろに狛犬さんと立派な楼門。楼門の左右には随身像が置かれてます。

 

 

拝殿には賽銭箱の両脇と東側本殿の正面にお花が生けられていました。拝観者はほとんどなく、ひっそりとした境内でしたが、ここだけは華やかです。

 

 

本殿は、享保18年(1733)に寄進された内裏賢所御殿の遺構を昭和45年に復元したものです。

 

御霊神社の起こり

長岡京造営を進めていた桓武天皇の信頼厚い藤原種継が暗殺され、天皇の実弟である早良親王が罪に問われました。親王は無実を訴えるため一切の食を拒み、淡路島へ護送される途中無念のうちに亡くなったと伝えられています。
親王の死後桓武天皇の身内が次々と亡くなり、また疫病の流行などが相次いで起こります。親王の祟りと恐れた桓武天皇が、平安遷都の際に都の守り神として相良親王を祀ったことが始まりで、本殿には政争により非業の死を遂げた八柱の神霊が祀られたといわれています。

 

無実の罪を着せておいて、神様にするから祟らないでねって。それで都を守って下さっているとは、なんと寛容なお心でしょう。(定価で買ったものがセールになってるのを見てムカッ!とくるくらい心が狭い私には出来ないことです。)

ところで、このところ続いている天災も祟りじゃ無いですよね?今日も台風来てるし。もう来ないでね。

 

 

福寿稲荷神社[境内社]は江戸時代中期以前より、祀られていたそうです(初めは本殿南側にあった)

五穀豊穣・福徳円満・長寿延命・生業繁栄の御神徳があります。

 

 

神明神社[境内社]。本殿の後ろあたりです。

 

実はこの辺から3秒もカメラを構えていられなくなりました。私他人には好かれませんが、蚊の皆さんには良い人だと思われてるらしく、おおきに〜と大挙して群がってきます。(敵!と認識されているのでは?と思わなくも無いけど。)

 

 

厳島神社[境内社]

 

 

花御所八幡宮[境内社]

西側の大きな鳥居の下にある石碑の花御所八幡宮はここを示しているのでしょうか。

この地より南西約1劼里箸海蹐紡利将軍家が造営した花の御所があり、その鎮守として源氏の氏神である八幡神が勧請されたそうです。本来の場所は御所八幡町(烏丸上立売下る)と考えられています。尚、足利尊氏が邸内に勧請した御所八幡宮とは別のものだそうです。

 

 

南門は四脚門ですね。真正面に見える拝殿は西側の楼門からも一直線です。

右の御霊神社と刻まれた石碑にも時計が付いていました。何ゆえ?

 

京都で最古のお祭り

毎年5月1日から18日に行われる御霊祭は、千年以上も続く歴史あるお祭りです。最も盛り上がりを見せる18日の還幸祭では、剣鉾・3基の神輿、八乙女・稚児・若武者・牛車などが氏子地域を練り歩きます。

 

5月上旬頃に咲き乱れる紫のイチハツ(アヤメ科)や、秋には黄色い銀杏の絨毯と紅葉のコントラストも大変美しいそうです。また混みあうことも無いらしいですから、そのシーズンにも行ってみたいなと思います。

 

あ、そうや!季節によっては虫よけは必需品でしょう。

 

Googleマップ


天寧寺 額縁門から望む景色もお庭も素敵でした。

久しぶりの良いお天気でしたので、鞍馬口通りから寺町辺りの寺社を訪れるMy散歩をしました(9/19)

 

鞍馬口通りから寺町を南下すると左手に見えてくる天寧寺

額縁門」と呼ばれる山門から望む景色が有名な曹洞宗の寺院です。

 

 

本当に額縁に入れたように比叡山が収まってます。まるで絵画のようですね。

 

 

庫裏です。

手前に酔芙蓉の木がありましたが、まだ蕾の状態でした。

 

 

表門・本堂

江戸時代後期の伽藍の形態をよく伝え、市内においては数少ない曹洞宗の近世寺院建築として貴重であるということです。
塀の後ろ本堂脇に見える巨木は市内有数のカヤの大木で、京都市登録天然記念物とされています。

 

 

観音堂
後水尾天皇の念持仏の聖観音像と中宮東福門院の念持仏 薬師如来像が安置されています。

 

 

まんじいなり

 

 

わらべじぞう
ジュースのお供えがたくさん。

 

 

門をくぐってから撮りました。普通街中のお寺は山門から入ると正面に本堂があったりするのですけど、天寧寺は比叡山借景を遮らないようにするためか本堂や書院は左手にあります。

 

 

これは紫式部?小紫?ツヤツヤの綺麗な実を付けていました。

 

 

シュウメイギクはこれからかな?咲いているのはまだ2,3輪というところ。

 

 

ヤブランは今が盛りのようです。

その他にもススキの穂や、白萩の花もチラホラと。酔芙蓉は咲いていなくて残念でしたけど、随分と色々な種類の植物が植えられているのでしょう。綺麗に整えられたお庭は四季折々の花が楽しめるのですね。

 

天寧寺

山号は萬松山(ばんしょうざん)と号し曹洞宗に属する。

もと会津城下にあったが、天正年間(1573-1592)にこの地に移送されたと伝えられている。その後天明の大火により堂宇を焼失したが、本堂は文化9年(1812)に、書院は天保14年(1842)に再建された。本堂には仏師春日作と伝える本尊釈迦如来像を、観音堂には後水尾天皇の念持仏聖観音像及び東福門院の念持仏薬師如来像を安置している。境内墓地には江戸時代の茶人として有名な金森宗和、剣道示現流の開祖といわれる善吉和尚らの墓がある。

山門を通して眺める比叡の秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は「額縁門」と呼ばれて親しまれている。

(駒札より)

 

非公開ですが、境内は拝観できます。いいお寺でしたよ(^^)/

 

Googleマップ

 


輪違屋 創業以来300年以上も営業を続ける島原唯一の置屋

以前に非公開文化財公開で揚屋角屋さんの見学をしました。その時は輪違屋さんは公開されていませんでしたので、外から眺めて駒札に書かれた説明を読んだのみ。また機会があったらね、という思いで去りました。

そして今夏、京の夏の旅 文化財特別公開でやっと「輪違屋」さんを拝観できました\(^o^)/

 

輪違屋さん外観。

たまたま見学者が多かった日なのか、入り口にいつも数人の方がいらして、やっと見つけた空いている時。雰囲気は角屋さんと似てますね。

輪違屋は今から300余年前の元禄年間に太夫や芸妓を抱える置屋(今で言うプロダクションみたいなものですかね。)、「養花楼」として創業。明治5年からお茶屋としても営業を始めたそうです。現在の建物は安政4年に再建されたもので、現存する最古の置屋として貴重であり、京都市指定文化財になっています。

 

 

1階主屋の3方に庭がありました。こちらは東側の坪庭。中央奥に2つの陰陽石、手前右にキリシタン灯籠、左に変わった形の蹲がありました。

この主屋では太夫さんとお客様との顔合わせの儀式であるかしの式が行われたそうです。

 

1階は写真撮影はご自由にとお聞きして、え〜〜!いいんですか!?と小躍りして喜びました。が、ほとんどピンボケでしたガーン!。多少のボケは私と同じ!と厚かましく毎回載せているのですけど、太夫さんが書かれた和歌(それも達筆!)の下書きを襖にしつらえたものとか、近藤勇の書が表装された屏風など色々撮ったのに、撮ったのに〜心霊写真のようでした。載せられません。。。_| ̄|○

 

 

西側の庭と縁と軒。

こんなに深いひさしなのに、柱が1本もありません。梃子(テコ)の原理を利用して軒先の重量を支える工夫をしているそうです。

柱が無いことで景観が遮られず、風流な趣が増すのですね。

 

 

輪違屋さんと言えば、この傘の間の襖。2階は撮影禁止でしたから、こちらは拝観チケットのものです。

合わせて8枚の襖に全部で4つの傘がある。描かれたものではなくて、傘の地紙が貼ってあります。床柱には松、また竹や梅の木も使われるお目出度い部屋なのだそうです。

襖の上に「花實雙美」と書かれた扁額があります。近衛文麿のお爺さまの書だそうです。また、掛軸に桂小五郎の書もありました。(1階には近藤勇の書があったなぁ・・)

 

2階では他に紅葉の間と太夫さんの控えの間を見学しました。

本物の紅葉を塗り込んで、乾燥後に取り出し顔料で着色したという風雅な壁を持つ紅葉の間、なんと床框も地袋板も紅葉(楓?)の木なのだそうです。

その向かいの太夫の間は、小部屋二間続きの控えの間で、綸子に刺繍を施した太夫さんの豪華な打掛が飾られていました。

 

 

2階の客間に行く大階段はなかなかの急勾配です。この階段上の天井に球状の鏡(ミラーボール)が吊るされていました。鏡を利用して、お客様どうしが鉢合わせしないようにするためだそうです。そのためでしょうか、この建物には階段も5か所あるそうです。

(内部の写真はほとんどボケてしまったのですが、これはマシな方。それにしても見学者の多いこと。まぁ私みたいなめんどくさがり屋も来ているくらいだから。)

 

 

輪違屋さんマーク。これはガス灯でしょうか。

この下の行灯にも、1階の大階段横の暖簾もそうでしたけど、至る所でこの標章を見ました

 

 

軒の瓦に「癲廚了。

傘の間の襖の意匠にもあるデパートの高島屋のような「癲廚藁悵祺阿気鵑里甘主が盒兇気鵑世らだそうです(高島屋とは無関係)

 

太夫さんは傾城(公許を得て遊宴の席でお客様を接待する女性)の最高位で、かつては御所にも上がれる正五位の位が与えられたと言います。容姿に優れ、舞・三味線・囃子などの歌舞音曲のほか、茶道・華道・香道・書道に和歌・俳諧などの教養(それも人に教えられるくらいの技量)を身に付けていっらしゃいます。
結髪はもちろん地毛で簪などの頭部に付ける飾りだけで3kgくらいになり、太夫道中に使われる黒塗り三枚歯の下駄の重さは片方が約2kg、太夫の衣装は全部合わせると30kg近くなるそうです(30kgといったら私の分かりやすいところで、5kgのお米袋を6個!---庶民の例えですみません)。
あらゆる教養を高度に身に付け、30kgの装備も身に付けて、優雅に歩かはる太夫さん!美貌に才能、根性と体力も兼ね備えたスーパーウーマンです。

 

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関連角屋(すみや)

 



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