詩仙堂 何もかも美しいです。
6月の下旬に「詩仙堂」に行ってみました。
詩仙堂は江戸時代初期の文人、石川丈山の山荘跡で国の史跡に指定されています。現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくはでこぼこの土地に建てられたと住居という意味の「凹凸窠(おうとつか)」で、「詩仙堂」とはその中の一室の名前です。
白川通りから曼殊院道を東へずっと登って行くと右側にひっそりと山門「小有洞(しょうゆうどう)」がありました。この先に宮本武蔵で有名な八大神社があり、「一乗下り松の決闘で名高き八大神社」と掲げられた看板が目立ちすぎて、うっかりこの山門を見過ごしてしまいそうでした
山門から十数段の風情ある石段を登って、石敷きの小道に出ました(シャッター押し忘れてたかなぁ。その風情ある石段が撮れてなかった)。この突き当りを左へ。
「老梅関(ろうばいかん)」の門。後ろの建物と混ざってしまって・・趣のある景色のはずが、おかしな顔(バカ殿に似?)に見えてしまうのは一重に私の邪念のせい?
老梅関をくぐって、正面に堂宇とその上に「嘯月楼(しょうげつろう」。この建物の左手に、詩仙堂の名前の由来でもある「詩仙の間」がありました。
右を見ると白砂の向こうにまた小さな門「凹凸窠門」。この門のところまでは行けませんでした。
趣向をこらした「雲形の窓」。これがどうしても目に見えちゃうのよ
書院から庭園。
人も多いですし、元々写真ヘタですから、なかなかうまく撮れません
ところで、ここで寝っころがっている中年の方がいたのですけど・・お寺の書院で、しかも他の拝観者が大勢いるのに横になれるとは、すごい度胸です。きっと天井を観賞していたのでしょうね
「詩仙の間」の左隣、「猟芸巣(りょうげいそう)」または「至楽巣(しらくそう)」という読書の間から庭園。
「詩仙の間」には日本の三十六歌仙にならった中国の詩家36人の肖像が、四方の壁の上方に掲げられていました。
庭に降りてすぐ左に岩に囲まれた小さな滝「洗蒙瀑(せんもうばく)」。蒙昧(モウマイ)を洗い去る滝の意だそうです。
「僧都(そうず)」ししおどしです。丈山自身も閑寂の中にこの音を愛し、老隠の慰めにしたということです。乾いたコンという感じの音でよく響いていました。
お庭の方から見た「嘯月楼」
百花を配したという「百花塢(ひゃっかのう)」とはこの辺りのことでしょうか。書院の前のお庭から一段下がったところにあります。
池の脇には半夏生・金糸梅などが、目立ちすぎないようにように上手に咲いている?
書院の前庭とはまた違う雰囲気。緑のシャワー。
茶室「残月軒」。近年になって建てられたそうです。
緑陰の中に紫陽花のブルー。
詩仙堂丈山寺
石川丈山が寛永18年(1641)59歳のときに造営し、没するまでの約30年間をここに住まう。四季それぞれに趣きがあるが、特に5月下旬のさつき、11月下旬の紅葉が有名。現在は曹洞宗の寺院。
丈山はここに凹凸窠十境を見立てました。
(一)小有洞(しょうゆうどう)(ニ)老梅関(ろうばいかん)(三)詩仙の間 (四)猟芸巣(りょうげいそう)または至楽巣(しらくそう) (五)嘯月楼(しょうげつろう) (六)膏肓泉(こうこうせん) (七)躍淵軒(やくえんけん) (八)洗蒙瀑(せんもうばく) (九)流葉はく(りゅうようはく) (十)百花塢(ひゃっかのう)
紫色の文字は写真のあるものです。
石川丈山(いしかわ じょうざん)
1583年(天正11年) - 1672年6月18日(寛文12年5月23日))
もとは武士で大坂の役後、牢人。一時、浅野家に仕官するが致仕して京都郊外に隠棲して丈山と号した。江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。煎茶の祖とも言われる。(ウィキペディアより)
いつの時代にも居るんですね、マルチな天才! 因みに以前にUPした渉成園(枳殻邸)も丈山が手がけた庭園です。
詩仙堂のHPはこちら。
Google map
ところで、我が家の庭にも滝と池とししおどしが欲しいです。畳一畳分にも満たない雑草が生い茂る風情ある庭園ですが