積翠園

東山武田病院が閉院して以来、ずーっと来ていなかった積翠園。フォーシーズンズホテルになってからどう変わったかしらと、今回わざわざダイニングでランチをとって(^^; 久しぶりの散策をしました。

 

池の淵まで建物が迫っているので、池が大きくなったような気がします。

4月の中旬でしたが、桜はまだ綺麗でした。

 

 

あまり手入れのされて無かったお庭の印象しかないので、きれいになったなぁってびっくり!

 

 

これから青紅葉が美しい季節になるのですね。

 

 

池には大小二つの島があって、こちらは大島の畔に並ぶ夜泊石。不老不死の妙薬を積んだ宝船が停泊している様を表しています。

以前と同じはずなのですけど、茶色っぽかった水が綺麗に澄んで、雰囲気ががらっと変わりました。

 

 

数年前は池辺からこの石橋で大島に渡れましたが、今は手前に柵があってダメですがく〜

 

 

シャガが咲き乱れる、ダイニングのテラスの方から見ています。

 

 

池の東端。滝石組みがあるこの辺りは鬱蒼としていましたけど、随分と明るくなってました。

 

積翠園

平家物語に「小松内府の園地」と記されている平重盛(平清盛の長男)の山荘庭園と言われている。江戸時代は現在南に隣接する妙法院の境内となり元禄期(1688-1704)に改修されたが、現存する平安時代末期の庭園は数少なく貴重な文化遺産でもある。約1万平方メートルの敷地の中心に約3千平方メートルの池がある池泉回遊式庭園。

 

平家の山荘庭園から寺院へ、現代になって病院からホテルって、随分変わりましたけど、ずっと平安時代の遺構を残しつつ保存されていたのですね。以前は誰でも無料で散策できる、森閑としたお庭でした。さすがに行き届いた手入れはされていませんでしたが。

美しく雅に変身した積翠園、重盛さんが今の様子を見たら喜んでくれる?

 

ひとつ、以前に比べて残念なことは、鴨がいない!!鷺もいない!泣き顔 お隣の妙法院の小さな池にも先日見たときには鴨と鷺がいたのに。

 

 

 

私にとっては、京都専売病院から、東山武田病院と30年くらい通いつめた病院のお庭だったのですけど、もう自由な散策があまり出来そうも無くてちょっと寂しい気もします。今はホテルの庭園。今度はテラスでアフタヌーン・ティーでも・・あら、そういう新しい楽しみも出来ましたねラッキーニコニコ

 

Googleマップ(フォーシーズンズホテル京都)

東山七条周辺の地図

 


梅(妙法院)

先日大雪の日に境内を少しだけ撮影しましたが、今回は「京の冬の旅非公開文化財特別公開」でちゃんと?拝観しました。

3年ほど前にも拝観していますので、その時の記事で妙法院について少しだけ説明しています。こちら

 

撮影は建物内も中庭も出来ませんので、可愛い花が付いていた境内の梅の木だけ載せておきます。

紅梅。ほとんどツボミでした。花はまだ数えるほど

後ろは宸殿の縁側。

 

 

白梅。良い香りがしていましたよ。

 

 

ツボミがいっぱいニコニコ

 

 

仲良く並んで咲いてますニコニコ

 

以前に拝観した特別公開から特に目新しいというものはありませんでしたが、なぜかお寺は落ち着きます。それにしても寒かった!暖房の無いところで防寒服を着ずに説明をされる学生ガイド?さん、凍えなかったですか。私なら全身ホカロンです。

 

東山七条周辺地図

Google map

 

 


久しぶりに積もりました雪

普段は物ぐさな私でも、こういうときは朝から散歩するのです。

 

妙法院の山門です。白い点々はレンズの汚れじゃなくって雪です〜。

 

 

(この画像はクリックで拡大します。)

妙法院境内。

車轍が薄く付いている程度で、清々しいプチ銀世界を堪能できました。

 

 

女坂。妙法院の塀からのぞく木々。

 

 

新日吉神宮。鳥居から楼門。

ほとんど無彩色の世界にやっと色が付きました。それも鮮やかな朱!

 

 

新日吉神宮 舞殿。両脇の桜は雪の花。

 

 

東大路 七条から北に向けて。

歩道の雪が凍っていたりシャーベット状になっていたりと非常に通りにくい中、袴姿に弓を携えたお嬢様方とすれ違いました。三十三間堂に行かれるのですね。雪舞う中の通し矢!粋です〜(参加者には過酷でしょう)。

 

三年坂あたりへ行きたかったのですけどね、降り積もる雪の中、延々と清水の坂を上るのも、階段を転げ落ちるのもやだなー(転ぶと決めている)で、妙法院と新日吉神宮になりました。人通りが少なくていいです。

 

東山七条周辺の地図

 

 


「法住寺 」 栄華を極めた院の御所。

法住寺は三十三間堂の東にある天台宗の寺院です。

かつては後白河上皇の御所が営まれた法住寺殿として、広大な寺領と栄華を誇りました。

 

山門です。ずいぶん目立ってる看板はこの日(10月0日)に催された「今様合(いまようあわせ)」の案内です。

 

 

この門は昭和天皇が即位されたときに作られたもので、中心に三つ巴のある菊の御紋に2枚の葉が生えています。これは菊の御紋はもったいないという考えから葉を2枚配しているのだそうです。

 

 

山門をくぐると左側にあるお社に、「豊川陀枳尼天・厳島弁財天」の額を真中に、左の額には「白峰弁財天・竹男大龍神」、右には「毘沙門天王・護法魔王尊」と書かれた額がありました。神様が大勢いらっしゃいます。

 

 

山門と本堂の間にお百度石(社寺の境内で、百度参りの往復の標識として立てられている石。 )が立っていました。

境内の萩の花はもう終わりのようですが、芙蓉はまだまだ綺麗に咲いていました。

 

 

2006年に改修された本堂。本尊の不動明王、通称「身代わり不動」さんが祀られています。

法住寺殿が木曽義仲の焼き討ちに合ったとき、放たれた矢に当時の天台座主・明雲が倒れた。法皇は「お不動さまが明雲となって我が身代りとなってくれた」と落涙されたそうです。

本堂の左の小間には「赤穂浪士四十七士の木像」が安置されています。大石内蔵助は身代わり不動尊に詣でて討ち入りの成功を祈願したということです。

拝観受付は本堂内に入って左側にあり、またこちらでは様々な物が販売されていました。

 

 

本堂の前庭。変な角度から撮ってしまいましたが、護摩法要に使われるところだそうです。

 

 

中庭の渡り廊下。「今様合」が行われる日でしたので、拝観者が多く(私もその一人ですが)思うように撮れませんでした。お兄さまたち、頭が入ってしまってごめんなさい。

 

 

今様」とは平安時代中期に発生した現代流行歌という意味の名前で、後白河法皇は熱中し過ぎて何度も喉を痛めたそうです。

今様合」は阿弥陀堂で行われました。平安装束を着た歌人が部屋の左右に分かれて座り、お題にそった詩を即興で作ります。それを楽人・舞人がまた即興で歌舞楽を演じる、今で言えばアドリブで作った歌をダンサーがアドリブで踊るみたいな感じ? 拝観者にも希望があれば色紙が渡されて歌が詠まれ、その中から2首に舞が付けられていました。

初めて見ましたが、華麗な平安装束や御香の香り、白拍子の美しい舞いなど興味深いものでした。

堂内には後白河法皇の木像と親鸞聖人作の阿弥陀如来像、蕎麦食い木像が安置されています。蕎麦食い木像は親鸞聖人が修行中の比叡山を毎夜抜け出して六角堂に参籠していた時期、身代わりを勤めていました。衆僧と共に振舞われた蕎麦を食べ終えて立派に留守居を果たしたという伝説の木像です。

 

 

山門の南(右)にあるもう一つの門、「竜宮門」です。

門の前の左側には「法住寺殿蹟」、真ん中には「旧御陵正門」と書かれた石碑が立っています。この法住寺の東(裏)に「後白河天皇法住寺陵」がありますが、かつてはここがその御陵の正門だったようです。

(この写真は「今様合の会」の翌日に撮ったものです。)

 

-------------------------------------------------

後白河天皇陵

 

後白河天皇陵」。法住寺の東にあり、山門の少し左にある小路から続いています。

(当日は御陵に行く道の門が閉まっていましたので、何年か前の秋に撮ったものを載せておきます。)

 

法住寺

永延2年(988)右大臣藤原為光が、息女(花山天皇女御)の死後その邸宅を寺としたが、長元5年(1032)に火災により焼亡。それから約120年余り後、皇位を二条天皇に譲った後白河上皇の院の御所が応保元年(1161)から営まれ、法住寺殿と呼ばれた。寿永2年(1183)、木曾義仲の軍勢によって法住寺殿は焼失、後に後白河法皇が崩御されると焼失後の敷地に新たに法華堂が作られ、御陵と定められた。その後法住寺は後白河天皇稜を守る寺として存続したが、明治になり神仏分離令が発令されると、天皇陵は寺域から分離され宮内省の管轄に置かれた。

 

現在妙法院の管理下にある蓮華王院(三十三間堂)は長寛元年(1163)に平清盛の寄進で建立された法住寺の堂宇の一つであり、近辺にある新日吉神宮・新熊野神社は、当初は鎮守社として法住寺内に勧請したものである。

 

また、法住寺は「サザエさん」の作者 長谷川町子さんが愛したお寺で、遺骨はこちらに安置されているそうです。

 

法住寺のHPはこちら

 

<ブログ内関連記事> 新日吉神宮 妙法院 東山七条周辺の地図

 

Google map

 


豊国神社の桜

京都国立博物館の北にある豊国神社の唐門(国宝)と傍に咲く桜です。


昨日豊国さんを通ったときに「あら、咲いてるわ!」って。
きっと早咲きの桜なんでしょうね。もう今日は風で花びらがヒラヒラ〜って散っていました。
訪れる人は多くないのですが、鳥居の脇のソメイヨシノが満開になると、とっても華やかなんですよ。もうすぐだなぁニコニコ

 

東山七条周辺の地図

 

Google map
 


真っ白です。

午後から天気予報どおり「あ、降って来たな。」と思っていたら短時間で辺り一面真っ白になってしまいました。
立ち止まってジャケットやフードに積もった雪を意味も無く一生懸命はらっていたら同じ事をしている人がいて、顔を見合わせて笑っちゃいました。もうこんなに雪だるまになっちゃうと笑うしかない!いっしょに笑ってくれた人、ありがとう。
東大路や四条通りを走る車はみんな屋根に雪を乗せて、中にはボディまで雪に覆われちゃってカマクラみたいな車もあるなと思ったら私の帰りを心配して迎えに来てくれた娘の車でしたたらーっ


こちらは豊国神社裏の大仏殿跡緑地公園。まーっ白!緑地公園なのに緑地が無い!
これだけ積もると「わ〜〜い!」って雪面を走りたくなります。が、いい歳したおばさんは即、雪に埋もれたのでした困惑


こっちもね。こんなに積もったのは何年ぶりかしら?綺麗だな。
しかし、明日の出勤がものすごく心配ですひやひや

 

東山七条周辺の地図


 


東山七条周辺の地図。

博物館や三十三間堂がある東山七条界隈の地図です。


(この地図は2017年4月に差替えました。)
ちょっと体調を崩してしまって、ひきこもり中です。せっかく引きこもったのだから、地図を描いてみました。
清水寺周辺のようなお土産物屋さんの賑わいは無いですが、この辺りには国宝や重要文化財がたくさん集まってます。もちろん三十三間堂や博物館には大量に、それから東側の妙法院の庫裏、智積院の長谷川等伯一門の障壁画、北側の豊国神社の唐門も国宝です。重要文化財も合わせたらどれだけの数になるのか。普段何気なく歩いている道にも貴重な文化財が点在している、そんな所です。

博物館・三十三間堂周辺 

 

Google map


京都国立博物館

東山七条にある、明治30年(1897年)に開館した100年の歴史を持つ京都国立博物館です。


バロック様式を取り入れたレンガ造りの本館(特別展示館)です。
宮廷建築家・片山東熊(とうくま)の設計で1895年(明治28年)に竣工しました。
内部は高い天井に白い壁、柱の1本1本まで西欧の宮殿のように豪華で華麗で、しかも落ち着いた雰囲気があります。 昭和44年に国の重要文化財に指定されました。


 
特別展示館とともに昭和44年に重要文化財に指定された正門です。通常の入り口は七条通り側の南門ですが、正門は西側の大和大路に面しています。
これは門の内側から外に向けて撮っています。外から見ればこの奥に噴水、その向こうにバロック様式の本館が見えて、京都とは思えない景観です。帰りに大和大路から撮ろうと思っていたのにうっかりすっかり忘れてしまった。(でも、門の外側には高いフェンスが張り巡らされているのですが。)
真ん中より少し右の後方に見える白い蝋燭のような物体は京都タワーです。


本館の方から西に向けて撮っています。噴水とその向こうに上述の正門があります。


建設中の新館「平成知新館」の手前に噴水とロダンの「考える人」。何を考えているんだか。
「平成知新館」は2014年9月13日に開館予定。外観はもう完成しているように見えました。
何年もメッチャ長い間工事してたような気がします。


南門入り口脇にあるミュージアムショップ「便利堂」。博物館の名品をあしらったステーショナリーから過去の展覧会図録や専門書まで取り扱っています。


南門の隣にある「カフェからふね屋」。

先日まで開催されていた「魅惑の清朝陶磁」という特別展の美しい看板に惹かれて入館しました。まずは本館を撮って後は展覧会を見てからと思っていたら、すっかり暗くなっていました。本館以外の写真はもうほとんど夜景です。庭園は所々ライトアップされているものの、鳥目ぎみの私にはかなり暗く幽霊に遭遇しそうな気がして断念。建物からして古〜いものばかりだからなぁ。居てもおかしくないか(おばさんの妄想ほど迷惑なものはない。)

京都国立博物館
1897年(明治30年)に「帝国京都博物館」として開館し、現在は独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館。 京都に伝来した美術作品や文化財、日本及び東洋の古美術品や埋蔵文化財などを約12000件収蔵し、また修復施設も併設している。
重要文化財に指定されている壮麗なバロック様式の本館(特別展示館)や正門、庭園にはロダンの「考える人」の像のほか、平安・鎌倉・江戸時代に至るまでのさまざまな石造遺品が展示されている。

現在は平常展示館建替工事のため特別展覧会開催期間中のみ開館、それ以外は全館休館となっている。 新しい平常展示館「平成知新館」は2014年9月に開館予定。

京都国立博物館のホームページはこちら

七条通りの北側で東大路から大和大路までを占めています。東大路を挟んで東側に妙法院、七条通りの向かい側にはホテル ハイアットリージェンシー京都、斜向かいに三十三間堂があります。
東山七条周辺地図  


妙法院門跡・・庫裏は国宝の台所。

妙法院は青蓮院、三千院とともに「天台三門跡」と称されてきた名門寺院です。
通常は非公開ですが、「非公開文化財特別公開」と書かれた地味〜な立て看板がなぜか目にとまってしまったので。


東大路の七条から馬町の交差点まで石垣と定規筋の5本入った妙法院の築地塀がずーっと続いています。(しかし、現在妙法院は七条からその約半分くらいまで。あとは東山武田病院の跡地でフォーシーズンズホテルを建設中です。)


山門です。実は私、京都に住んだばかりの若かりし頃は(今も若いけど?)門跡(モンゼキ)が読めなかった。モンアトって何??みたいな。郷里から母が来て「あらすごい。ここは門跡寺院なんだね。」って。(う〜ん、さすがに昔の人だ。いや、私が非常識なのか?)まあそんなことで、初めて門跡を知ったオバカですたらーっ
「門跡」とは皇族・貴族の子弟が住職を務めていた別格の寺院を指す称号なのです。


国宝の庫裏(クリ)の外観です。
庫裏は寺院で食事を調える建物、または住職やその家族の住む場所だそうですが、妙法院の庫裏は巨大なキッチンです。
豊臣秀吉が1595年に方広寺大仏殿の「千僧供養」を行ったとき、千人分の食事を調えるために建てられたものと伝えられています。
とにかく広〜い、棟が高〜い(棟高60尺と書いてあるから18mくらい?)。ぶっとい柱や梁が顕になっていて、とにかく豪壮。そして屋根のその上にちっちゃい屋根、「煙出し」というようで、早い話が煙突ですか。土間には竈(カマド)もいくつか残っていました。


宸殿の外観です。門跡寺院特有のもので、重要な行事を行う堂宇です。
明治31年に再建されたもので、それ以前の旧宸殿は11室もの室数を持つ豪壮な建物でしたが、明治5年に撤去されたそうです(神仏分離令のため?)


左、手前が宸殿。その向こうに庫裏の大きな屋根と煙出しが見えます。
右は「七卿落ち」の碑。幕末、公武合体派に敗れた尊皇攘夷派の公卿、三条実美を始めとする七卿が再挙を図るため長州に落ち延びることを協議したのがこの宸殿(旧宸殿)でした。


内部は撮影禁止でしたから購入した冊子からです。(お香の良い香りがする冊子でした
左は庫裏。巨大な梁に圧倒されます。右は宸殿。豪快な庫裏に比べてこちらは雅。

その他東福門院の旧殿を移築したと伝える狩野派の障壁画が豪華な大玄関と大書院(重文)。内仏殿には天台宗最古のものといわれる不動明王像(重文)などが安置されています。龍華蔵には秀吉に宛てたキリスト教弾圧政策の緩和を求めたポルトガル国印度副王信書(国宝)、また蒔絵を施した文台や懸け盤など秀吉にゆかりのある多数の遺宝があります。


本堂の普賢堂です。宸殿の南にあるこの本堂は思ったより小さい建物でした。(台所があんなに大きいのに。) 堂内には普賢延命菩薩像が安置されています。普賢菩薩を本尊とする寺院は少ないそうです。


境内は非公開時でも自由に散策できます。

「妙法院門跡」
比叡山西塔本覚院の快修が天台座主職に補任された12世紀中頃、院の御所「法住寺殿」(東山七条辺り)の造営に着手した後白河上皇は熊野・日吉の両社を勧請し、その検校職を快修の甥である妙法院昌雲に与えた。後高倉院皇子尊性法親王が住寺になると門跡寺院としての地位が確立し、祇園社(八坂神社)西方一帯に寺域を構えて「綾小路宮」と呼称され大いに栄えた。近世に現在の境域に居を移し「蓮華王院(三十三間堂)」「新日吉社」「方広寺大仏殿」など東山の広大な町々を支配していたが、明治の廃仏毀釈で寺領が大幅に減らされた。しかし現在も「蓮華王院」はその管理下にある。

通常非公開
春または秋に「特別公開」がある。拝観料800円 9:00~16:00


 
積翠園の一部です。
「積翠園」
妙法院の北隣にある平重盛(小松殿)邸跡地といわれる大庭園です。約1万平方メートルの敷地の中に大池泉があります。江戸時代に妙法院の境内となり、昭和29年に専売公社が買収して京都専売病院の庭になりました。平成17年に経営が変わり東山武田病院となりましたが、それも23年に閉院し現在はフォーシーズンズホテルを建設中です。
病院の診察待ちで、退屈しのぎに携帯で撮ったものです。池ではカルガモが優雅に泳ぎ、時々カラスも飛んで来て、隣がお寺という素敵な病院でした。もう、あんなに自由には出入りできないだろうなぁ。ちゃんと写真を撮っておけばよかった困惑
東山七条周辺地図
 


新日吉神宮(いまひえじんぐう)

新日吉神宮は、東山七条を東に向かって女坂と呼ばれる坂の上に見える鳥居、廻り中が京都女子学園という素敵な場所にあります。
「新日吉」と書いて「いまひえ」、ちょっと読めないでしょう?でも地元では「ひよしさん」って呼んでますそのまんまじゃん。

祭神・・・ 後白河天皇 大山咋命(おおやまくいのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 加茂玉依比賣命(かものたまよりひめのみこと) 大山咋命荒魂(おおやまくいのみことのあらみたま) 田心比賣命(たごりひめのみこと)  菊理比賣命(くくりひめのみこと)加茂玉依比賣命荒魂(かものたまよりひめのあらみたま) 素盞嗚尊(すさのおのみこと) 大年神(おおどしのかみ)・・・神様がめっちゃいっぱい!居はります〜。



鳥居から楼門、楼門から舞殿。




満開の桜に彩られた舞殿です。(2013/04/02に撮りました。)




このお宮はお猿さんが多いのです。
絵馬や、お守り、そして拝殿前の左右には金網に入ったお猿さん!つまり「狛猿」さんです。
狛猿さんの傍らに携帯電話の写真が!?。
「日吉山王の御猿(真猿)は大神の御使者で、信者の災禍を去るという不思議な働きをされ、真猿=魔去る=勝るとも言われます。御神猿お守りとして携帯電話の待ち受け画面にお入れ下さい。」と書かれていました。
なるほど〜。待ち受けはお守りになるんだぁ!けれど、自分の携帯にはちょっと躊躇う。勇気が要る。
20年くらい前だったかな、楼門を入って左手に、本物のお猿さんが居たんですよ。もちろん金網入りで。




こちらが拝殿。




舞殿から拝殿を臨む。鳥居から楼門、舞殿、拝殿と一直線です。




本殿の裏(東側)に生育している御神木のスダジイ。
江戸時代以前から存在していたそうです。確かにジイです。

新日吉神宮
後白河法皇がその院の御所法住寺(現在三十三間堂の東向かいにあります。)内に比叡山東坂本の日吉大社を勧請したのが始まりで、古くから朝廷の崇敬が厚く、数多くの天皇の遺物、宸筆を蔵している。
参拝者はあまり無くひっそりとしていますが、古からある立派なお宮です。

新日吉神宮を通り越して女坂をもっと上ると豊臣秀吉の墓所「豊国廟」があるのですが、この神社の名前が日吉で秀吉の幼名が日吉丸、神の使者が猿、秀吉も猿と呼ばれていたことなどから豊臣秀吉と関係のある神社かと思っていましたら、始まりは後白河法皇だったのですね。
が、しかし!!やっぱり関係ありました!境内にある末社の豊国神社、別名「樹下之社(コノモトノヤシロ)」は、徳川幕府の目を潜って秀吉公のご神体を密かに祭祈してきました。日吉丸と木下藤吉郎(樹下)をかけてカムフラージュしてきたようです。と書かれていました。隠れ秀吉ファン?。
東山七条周辺地図

新日吉神宮神幸祭の記事


 



calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM