泉涌寺 御座所拝観

ずーっと塔頭巡りをして、最後に総本山の御寺泉涌寺の記事です。

何回か境内を訪れてはいるのですが、今回初めて御座所を拝観しました。

 

泉涌寺といえば伽藍に向かって下がっていく、定番のこの風景。

 

 

楊貴妃観音堂

 

 

仏殿

 

 

舎利殿

これより上の画像については前回(と言っても5年前だけど)の記事に載せていますので省略します。

 

 

この塀の向こうが御座所です。こちらから入りまして、寺務所の入り口で拝観料300円を納めます。

御座所とは、皇族が御霊、霊明殿へご参拝される際に、御休息されるための場所です。

現在の御座所は明治15年(1882)に炎上した霊明殿の再建に合わせて、旧御所のお里御殿を明治17年に移築したものです。(お里御殿は文化15年(1818)の造営。)

 

 

御車寄せから勅使門を撮りました。御車寄せは明治期の新築です。

現在も皇族方がお越しの時は、こちらの勅使門からお入りになるそうです。先日、上皇様・上皇后様が孝明天皇陵に譲位のご報告にいらした際も、こちらを通られたのですね。

 

また、非公開ですが御座所の東に接して、御所内の御黒戸(御仏間)を移築した海会堂があり、歴代天皇 皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られています。

 

建物内部は撮影禁止ですので、庭園をちょっとだけ。

御座所庭園は建物に沿って東から南に築かれています。

「玉座の間」辺りから東南方向を撮りました。白砂の向こう一面に敷かれた苔と、瑞々しい木々、それぞれの緑の競演が素晴らしいです。

 

 

南側の縁側から南西方向。

霊明殿(天智天皇以来、歴代天皇の御尊牌をお祀りした場所)の重厚な屋根が見えています。

 

 

御座所の濡れ縁に出た時に、すぐに視界に入った手水鉢。

塔頭の雲龍院の水琴窟も上部に菊の御紋が配されていたなぁ。

 

 

仙洞御所から移された八角形の雪見灯篭。この型の灯籠を一般に泉涌寺灯籠と呼ぶそうです。

笠がモスグリーンの帽子を被ったみたいに苔むしてる!(本物のモスだけど。)

 

 

御座所の縁を西から撮りました。

この南側の広縁に沿って、西から「侍従の間」「勅使の間」「玉座の間」、反対の北側に「女官の間」「門跡の間」「皇族の間」があります。全ての部屋に狩野派・土佐派などの絵師よる、様々な主題の襖絵が描かれ、大変心惹かれるものでした。

 

御座所は格調高く雅な雰囲気。しかも静かで穏やか。室内も庭園も、とてもファンタスティックでした。

紅葉の頃にまた行きたいなぁ。伽藍の拝観と合わせて計800円払っても(^^;

(後から気がついたのですけど、庭園と建物の一部はストリートビューで見れるのですね。)

 

泉山七福神巡りでは、番外楊貴妃観音札所。真言宗十八本山8番札所。洛陽三十三所観音霊場20番札所。京都十三仏霊場6番札所。(リンクはウィキペディアに貼っています)

 

泉涌寺のHPはこちら

以前(2014年)の泉涌寺の記事。

Googleマップ

 


雲龍院 (泉涌寺塔頭)

参道を頑張って上って来て、1番上の雲龍院です。前に2回拝観しましたが、何回でも訪れたい寺院です。

あのお抹茶とお菓子をまたいただきた〜い!

 

手前が山門、奥が勅使門です。

 

 

山門をくぐって塀越しに見える龍華殿。広い軒だなぁ。

 

 

拝観受付を済ませて、先ほどの龍華殿にやってきました。

広〜い縁とひんやりとした空気が気持ちいいです。真ん中の障子を開けて、久しぶりにお参りさせて頂きました。

 

 

水琴窟  龍淵のさやけしという名がついています。

大黒天さんが祀られているお台所から、悟りの間に至る廊下で不思議な音が聞こえてきました。

そちらに目を遣ると縁側に出られるようになっています。そこに皇室の紋がデザインされた水琴窟を発見しました。

 

 

この竹筒から、神秘的な音が響いていたのですね。

水琴窟を楽しめるように、座布団が敷かれていました。雲龍院さんは本当に拝観者に優しいです。

 

 

大輪の間から見えるお庭の景色です。

 

 

同じくこちらも大輪の間から。

 

 

悟りの間の方から、大輪の間に向けて。

 

約2年半ぶりに訪れました。ゆっくりと見て回れて、またほっこりできました(´▽`)

 

雲龍院のHPはこちら

ブログ内雲龍院記事→

Googleマップ

 

追記 お台所のちょっと怖い「大黒天」(走り大黒天)さんが、泉山七福神巡り(⇒ウィキペディア)で第五番として祀られています。

 


善能寺(泉涌寺塔頭)

来迎院の向かいにあります善能寺です。

 

こちらの山門も深い緑の中にあって、良い雰囲気です。

 

 

本堂。祥空殿
昭和46年(1971)、ばんだい号墜落事故(⇒ウィキペディア)の遺族の寄進により、航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立されたそうです。大空にそびえる五輪宝珠に殉難者の無限のいのちを託しています。

 

 

池泉式庭園 遊仙苑

昭和の名造園家 重森三玲氏の作ですが、池泉式庭園の作庭は重森氏には珍しいそうです。
池泉式なのに池が無い?と思ってよく見たら下がコンクリートでした。水が張られて池になるのでしょう。池に映った景色が見たいです。それから紅葉の頃にもまた来てみたい。

 

 

山門をくぐって右側を見るとすごく古い感じのお稲荷さんが祀られていました。こちらは日本で最初の稲荷大明神(荼枳尼天)といわれています。お社の上の扁額には「日本最初稲荷神石社」と書かれていました。

 

善能寺(ぜんのうじ)

本尊は聖観世音菩薩
弘仁14年(823)弘法大師の開基とされ、元は西八条猪熊二階堂町にあった。平城天皇の勅願寺であり、天文24年(1555)、後奈良天皇の命により泉涌寺山内に移された。
境内には日本で最初に祀られたとされる荼枳尼尊天が鎮座する。

洛陽三十三所観音霊場(⇒ウィキペディア)第18番札所である。


こちらは無人の塔頭だということですが、訪れる方も少ないのでしょう。境内ではどなたにもお会いすることなく、ずーっと一人でした。

 

泉涌寺参道から東に分かれた道を来迎院を目指してここまで来たのですけれど、善能寺の山門(右)前のこの階段を上ると、なんと泉涌寺の境内でした。

 

Googleマップ


来迎院(泉涌寺塔頭)

今熊野観音寺と同じく、参道から東(左)へ曲がる分れ道を行きます。

 

やっと着きました。木々に囲れた山門と石橋。風情があるわ〜。

 

 

実はですね、場所は分かり難かったですよ〜。泉涌寺総門前の地図を見ると観音寺の方に行くのだけれど、案内の一つくらいあっても良さそう・・・ってありました、目立たないけど。ゆな荒神 来迎院と書いてあるようですが、楷書しか読めない私に何とか読めたのは下の方の「来迎院」(´Д⊂ヽ)

 

 

観音寺の方に行きまして、途中から道は更に分かれます。

赤い欄干の橋は観音寺の鳥居橋。来迎院の方へ行く道から撮ってます。

 

 

先ほどの山門から入って、正面の階段の上に荒神堂が見えています。

 

 

独鈷水が湧く井戸。(荒神堂に上がる階段の下右側です。)
洞窟のような横井戸で、中央の黒い扉を開け柄の長い柄杓で汲み上げます。
霊元天皇の女官、小少将局の娘は生まれつき目が不自由でしたが、お告げに従い独鈷水で目を洗ったところ、たちまち見えるようになったと伝えられています。

 

 

荒神堂

来迎院の荒神は極彩色の玉眼に、唐風の衣冠束帯を身に付け、この種の木造では日本唯一のものといいます。三宝荒神は本来、火の神として台所、かまどを司るとされますが、こちらの荒神様は「胞衣荒神(ゆなこうじん)という別名があり、皇室の方々の安産の勅願所としても信仰を集めました。現在も安産を祈願する参拝客が大勢訪れているそうです。

 

 

本堂
本尊阿弥陀如来、霊元天皇の念持仏・幻夢観音像、他に大石内蔵助の念持仏・勝軍地蔵等が安置されています。

 

 

含翠の庭

広くはないですけど、何とも風情のあるお庭です。いわれのある石灯篭などもいくつかあるようです。

(左奥の方の屋根が大石内蔵助寄進の茶室含翠軒なのですけど、突然スマホが鳴って、焦って撮り忘れてしまった。・・ストリートビューで見れますけど。^^;)

 

 

こんなに素敵な緑ですから、紅葉の季節はすばらしいだろうなと想像できます。
庭園のみ拝観料300円、お抹茶と御菓子が400円でした。ほっこりできました(*´Д`)

 

来迎院(らいごういん)

山号は明応山。本尊は阿弥陀如来。
弘法大師空海が大同元年(806年)、唐で感得された三宝荒神をこの地にお祀りしたのが始まりとされている。その約400年後の建保6年(1218年)、藤原の信房が泉涌寺の第四世月翁和尚に帰依して一院を興したのが始まりと伝えられる。
荒神堂に安置されている木造の荒神坐像とその護法神五躯(国立京都博物館で管理)は、いずれも鎌倉時代の逸品で重要文化財に指定されてる。
弘法大師が独鈷を用いて掘り当てられたという名水・独鈷水がある。
大石内蔵助寄進による茶室含翠軒(がんすいけん)や、大石の念持仏とされる勝軍地蔵尊をはじめ、赤穂浪士に関する遺品を数多く所蔵している。
泉山七福神巡り(⇒ウィキペディア)4番「布袋尊」札所。

 

来迎院のHPはこちら

Googleマップ

 


今熊野観音寺 (泉涌寺塔頭)

総門から400mくらい歩いたでしょうか、左に長く続く別れ道があります。

昨年の秋に訪れた時、紅葉のグラデーションが素晴らしかったので、青モミジにも期待して 再訪しました。

 

鳥居橋。

デジカメの電池残量が少なくなってきたので、前に撮影したところはあまり撮らないでおくつもりでした。が、朱と緑のコントラストが見事で、やっぱり撮ってしまった。

 

 

手水舎が鮮やかな紫陽花に埋め尽くされていました。すごく奇麗だったので、ここで手を洗ってよいのだろうか?と悩んでしまいました。(洗わせていただきましたけど。^^;)

 

 

子護り大師様。

今回まじまじと拝見。優しいお顔をされていました。

 

 

本堂。

昨年の秋、このモミジはいち早く赤くなっていたなぁと思い出しました。でも、この季節でも もう所どころ赤いです。

 

 

鐘楼の周りも緑のグラデーション。

 

今熊野観音寺については前回の記事に少々記載しています。

追記として、西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所、ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場の第一番札所、洛陽三十三所観音霊場の第十九番札所、神仏霊場会の122番(京都42番)霊場。(観音寺HPより。) 

泉山七福神巡りでは、3番「えびす神」札所。(それぞれのリンクはウィキペディアに貼られています。)

 

頭の観音さん。

前回は見合わせたボケ封じの奉納、今回もパスしてしまった。気がついた時にはもう手遅れでは?ってボケちゃったら気がつかないよねぇ。運転免許を返納したことを忘れて、運転しちゃうみたいに。

そろそろしておくべきかな?

 

今熊野観音寺のHPはこちら

前回の観音寺の記事

Googleマップ

 


悲田院(泉涌寺塔頭)

参道から西に折れて、京都市立泉小中学校東学舎(旧 月の輪中)の校舎に沿って歩きます。

 

突き当りに朱色の門がありました。回りが眩しい緑色ですから、すごく目立ちます。

 

 

門からまっすぐ歩いて行くと、毘沙門天堂がありました。

こちらの毘沙門天様は、除災招福の仏として広く信仰されているそうです。

 

 

お堂の右側から視界が開けて、素晴らしい景観を見ることができました。ベンチもありますので、腰かけて眺められます。参道をずーっと上って来て、あ〜シンド!って体力無い私にはありがたいです(*´ω`)

 

 

毘沙門天堂から山門を振り返ります。綺麗な境内です。

少し奥まった場所にあるせいでしょうか、何方の姿もお見かけしませんでした。

 

悲田院(ひでんいん)
本尊は阿弥陀如来。
聖徳太子が身寄りのない老人や放置されている子供を収容する施設として造られたのが悲田院の始まりといわれる。延慶元年(1308)無人和尚がこれを一条安居院(上京区)に再興し、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺とした。
後花園天皇はこの寺を勅願寺とし、これより代々の住職は綸旨を賜わり紫衣参内が許された。また後花園天皇の崩御の際には当院で葬儀や荼毘が行なわれた。
兵乱により衰微するが、正保二年(1645)、如周恵公和尚が高槻藩主の帰依を受け、この地に移し再興した。
本尊の阿弥陀如来立像のほか、快慶作の宝冠阿弥陀如来坐像が祀られ、また土佐光起光成親子と、橋本関雪の襖絵がある。
泉山七福神巡り(⇒ウィキペディア)6番「毘沙門天」札所。

 

Googleマップ

 


新善行寺(泉涌寺塔頭)

戒光寺から少し上って同じく左側にあります。

 

参道沿いに新善行寺を示す石標・駒札があります。その手前のわき道を少し下がったところに山門が見えます。

 

 

山門から、手入れの行き届いた境内が見えます。
この数メートル前左(北)側に新善行寺が経営される泉山幼稚園があります。園児の元気な声が聞こえて、こっちまでパワーをもらえそう(ついでに若返れたらいいけど・・)

 

 

眩しい緑のお庭のつきあたりに本堂がありました。

 

 

愛染堂。こちらに愛染明王が祀られています。
愛染とは愛欲貧染の意味であり、その煩悩をそのまま浄菩提心に昇華させる明王様で、敬愛和合・恋愛成就を祈願する方々に厚く信仰されているそうです。

 

新善行寺(しんぜんこうじ)
本尊は阿弥陀如来。
寛元元年(1243年)8月、後嵯峨天皇の御願寺として値願念西が勧進して一条大宮の地に創建された。勅命により信濃国善光寺本尊と同体の阿弥陀如来立像を造らせ、本尊とした。南北朝時代から室町時代に入ると庶民の崇敬を受け寺は繁栄したが、応仁の乱により焼失。文明5年に泉涌寺山内に移り、江戸時代の寛文年間に現域に落ち着く。
泉山七福神巡り(⇒ウィキペディア)では番外「愛染明王」

駒札には準別格本山 一條殿 新善行寺 とありました。

 

訪れたのは今月上旬で、山門をくぐると、時節的に もちろん咲いてはいませんが、立派な枝垂桜がありました。お庭には愛らしいサツキがまだ残り、紫陽花が咲き始め。とにかく美しい境内でした。

 

Googleマップ

 


戒光寺(泉涌寺塔頭)

泉涌寺の総門から100mほど歩いて左側、前述の法音院の斜向かいに戒光寺はあります。

 

山門です。

 

 

本堂です。
こちらで、重要文化財の御本尊、釈迦如来立像を拝見しました。鎌倉時代の彫像で運慶・湛慶親子の合作。立像は約5,4m、光背と台座を含めれば約10m、通称丈六さんと呼ばれています。本当に大きくて美しくて、壮麗なお釈迦様でした。

拝観は無料ですが、少額で蝋燭と御線香を上げさせていただけるようになっていました。

 

 

拝観した時にはお釈迦様ばかり見ていて気がつかなかったのですけど、2つ上の写真の本堂では丈六さんが安置される高さが無い!?不思議に思って撮った写真を漁って見返すと、後ろに大きくて古くてどっしりとした建物が続いていました。内陣はこちらになっているのでしょう。(早く気がついて上手に撮っていれば一枚の画像で済んだのにね^^;)

 

 

泉山融通弁財天です。融通を利かせてあらゆるお願いを聞いて下さると信仰が篤く、また こちらの尊像は伝教大師作と伝えられ、御開帳は1月の七福神巡りと11月の弁財天大祭のみに行われているそうです。


戒光寺(かいこうじ)
当初は戒光律寺と呼ばれた。本尊は釈迦如来立像。
鎌倉時代の安貞2年(1228)、南宋から帰朝した浄業曇照上人により、八条大宮の東に創建され、後堀河天皇の勅願所となった。応仁の乱により一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て正保二年(1645)に現在地にて再興された。
後陽成天皇の皇后のご信心や、後水尾天皇も釈迦如来像がお身代わりになってくれた事があり、守護仏としても深く信仰された。後に身代わり丈六さんの名で庶民からも篤い信仰をうけている。
京都十三仏霊場(→ウィキペデイア)第3番文殊菩薩。泉山七福神巡り(⇒ウィキペディア)では2番、「弁財天」を祀る。
また、墓地には壬生寺から改葬された御陵衛士(→ウィキペデイア)伊東甲子太郎以下4名の墓がある。(ブログ内関連記事)

 

戒光寺のHPはこちら

Googleマップ

 


法音院(泉涌寺塔頭)

前記事の泉涌寺総門前にある即成院の後、門をくぐって坂の下の方の寺院から順に拝観しました。

法音院は、少し上がると右側にあります。

 

法音院の山門です。

山門の脇に掛かっている境内図(ホームページと同じ)がとても分かりやすかったです。

 

 

こちらに泉涌寺七福神の寿老人が祀られています。健康長寿・諸病平癒・富貴繁栄の御利益があります。

 

 

本堂
本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)が安置されています。あらゆる困難・苦難・災難から救ってくださる観音様で、一面三眼八臂のお姿です。
 

 

本堂と書院の間から綺麗なお庭が見えていました。

 

 

鎮守社 三社明神
緑あふれる境内にあって、この真赤なお社がものすごく目をひきました。

 

法音院(ほうおんいん)
鎌倉時代末期嘉暦元年(1326)無人如導宗師によって創建されるが、応仁の乱により焼亡。
その後、江戸時代の初期 寛文4-5年(1664-1665)幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得、覚雲西堂の手により現在の地に再建される。書院は伏見桃山城の遺構の一部である。
現在の本堂は英照皇太后(孝明天皇女御)御大葬の御須屋(御陵の上に設けた仮屋)を賜ったもの。
本尊は不空羂索観音。洛陽第三十三観音霊場第(⇒ウィキペディア)二十五番札所。泉山七福神巡り(⇒ウィキペディア)では7番「寿老人」を祀る。

 

広くはないですけど、気持ちの良い境内でした。鹿の像は神様のお使いでしょうか?可愛かったです(´▽`)

 

法音院のHPはこちら

Googleマップ

 


即成院(泉涌寺塔頭)

泉涌寺の塔頭巡りをしましたので、しばらく続けて書きます。

 

まずは泉涌寺総門より手前に位置する即成院です。

 

山門です。参道の左側(北側)にあります。
屋根の上の鳳凰は創立者の橘俊綱(たちばなのとしつな)が、父 藤原頼通が建立した宇治平等院の鳳凰と向き合う形にさせました。当初は伏見桃山にありましたが、現在の場所に移った今日でも平等院の鳳凰と向き合っているそうです。

 

 

本堂です。
こちらで、近年では仏像のオーケストラと呼ばれている重要文化財「阿弥陀阿如来と二十五菩薩」を拝観しました。その大きさと荘厳な雰囲気は圧倒的で、暫し無言で見とれていました(一人の拝観なので喋っていたら危ない人だけど)

本堂に上がらせていただく拝観料は500円でした。

 

 

那須与一の墓所です。(本堂の後ろの方のガラス戸から、このお墓まで渡り廊下で続いていました。)
源平合戦屋島の戦いで扇の的を射て、源氏を勝利に導いた那須与一は合戦前に突然の病に倒れました。そして伏見で療養中に即成院の阿弥陀様を熱心に信仰されたそうです。その霊験で病も癒え、屋島の戦いではすばらしい功績を上げたとされています。与一はその後出家し、合戦で亡くなった方々の菩提を弔い、即成院で生涯を終えたと伝えられています。
お墓の形が何気に加茂茄子!?

 

即成院(そいくじょういん)
山号は光明山。本尊は阿弥陀如来。
宇治平等院を建立した藤原頼通の子で歌人 橘俊綱(たちばなのとしつな)の創建。明治の廃仏毀釈の影響でいったん廃寺となり、明治32年(1899)に泉涌寺塔頭の法安寺に吸収合併された後、明治35年総門近くの現在地に移された。昭和16年(1941) 即成院へと寺号が復活する。
本堂内陣の本尊 阿弥陀如来と二十五菩薩は、寛治8年(1094)に作られたものと言われ(一部江戸時代の補作)、国の重要文化財。
また、那須与一ゆかりの寺としても知られている。

泉山七福神巡り(⇒ウィキペディア)では1番。「福禄寿」が祀られています。

 

即成院のHPはこちら

Googleマップ

 



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