新選組も勤皇の志士も利用しました。島原 角屋(すみや)

京の冬の旅非公開文化財特別公開で、島原の角屋を見学しました。

京の冬の旅〜でなくても、角屋は「もてなしの文化美術館」として公開されていますが、開館期間というのがあり、一年中の公開ではありません。

 

島原大門 昭和61年(1986)に京都市登録有形文化財として登録されました。

だいもんではなく、おおもんと読むんですね。知りませんでしたひやひや

 

 

揚屋  角屋(すみや) 重要文化財

かなり大きな建物です。

揚屋とは、饗宴のための施設で現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられています。太夫や芸妓は抱えず、置屋から派遣してもらって歌舞音曲を伴う遊宴によりお客様をもてなすところです。

 

 

角屋の家紋を染め抜いた暖簾

受付を済ますとすぐにこの暖簾がありました。本来は中戸口(内用の玄関)に吊るすものを観覧のためにこの場所に展示しているそうです。

 

 

玄関。

受付でいただいた角屋のQ&Aによりますと、この赤い壁は元々揚屋など花街の壁ではなく、社寺の書院・客殿に使用されたもので、揚屋がそうした高級壁を用いることによって、並みの建物でないことを示したものと思われますということでした。そういえば、祇園の一力茶屋も赤い壁です。

 

 

三宝荒神。

拝観順路どおり台所から入りましたら左手に鎮座されていました。

「台所の神様を祀る飾り竈」ということですが、大型冷蔵庫くらいの空間を占めてます。

まぁ50畳のキッチンですから。ウチにあったら台所通るとこがなくなる唖然

 

 

台所の衝立。家紋が切り抜かれています。

 

 

重要文化財の広大な台所に、ずらーっと並んだ竈です。

お寺の庫裏と同規模の台所を備えていることも揚屋建築の特徴だそうです。

高い棟、太い梁などを見て妙法院の庫裏(国宝)を思い出しました。

 

 

左・・竈の上のしめ縄飾り。なんだか可愛いですポッ

右・・八方。 吊り行灯で、四方八方灯りを照らすというところから八方と呼ばれているそうです。

 

 

竈の奥の畳敷きのスペース。

こちらに帳場や箱階段、刀箪笥などがありました。

 

 

帳場。

こういうの時代劇によく出てきますね。

 

 

左 箱階段 京都の町家によくある収納を兼ねた階段で、かなりの急勾配。

右 刀箪笥 玄関の刀掛けで一旦あずかった刀をこちらに移して保管しておくもので、今で言えばロッカーにあたるそうです。メッチャ気ぃ使いそうな預かり物やひやひや佐幕派も尊攘派も使う宴会場で大騒動が起こらなかったのは、こういうシステムだからかな。

 

 

台所から続いて中庭と、廊下の右側が網代の間です。

 

 

網代の間 天井と火燈窓

天井板を網代組にしているところから、網代の間というそうです。火燈窓の上の欄間は網組の障子。

 

 

松の間

広さ43畳の角屋一の大座敷。庭に臥龍松があることから松の間と称するそうです。

大正14年(1925)に一部を焼失し翌年すぐに再建しましたが、重文には指定されてないということです。襖絵は岸連山筆「桐に鳳凰の図」。

新選組の初代局長芹沢鴨がこの部屋での宴会の後、屯所である八木邸に戻って暗殺された話は良く知られています。

 

 

主庭 臥龍松の庭(京都市指定名勝)。松の間の南に面する枯山水白砂の庭です。かつては1本で臥龍の形を作っていました。しかし、大正末に枯れてしまい、現在は二世の木々を以って当時の枝振りを復元しているそうです。

ちらっと、斜め上を見ると電車(JR)が通ってました。ガイドの方のお話によると、太平洋戦争中に山陰線空襲の恐れがあり、延焼防止のため解体される予定となっていましたが、担当者が訪れた際に西郷隆盛が使った盥(たらい)を見つけ、明治維新の元勲も利用した遺構であると解体は一時延期されました。そのまま敗戦となって、解体を逃れたそうです。そのたらいは神!唖然

 

 

松の間の引き手と欄間。

その他色々と細かいところまで、趣向を凝らしてします。

 

 

新選組が付けた刀傷の痕がある柱。

暖簾をくぐってすぐ右側にありました。

二階にはもっとスパーッ!とした?刀傷があるそうです。通常は玄関で刀を預かりますが、御用改めなど特権を持つ新選組は宴会の席でも帯刀していたらしいです。この刀傷は乱闘の末に付けられたではなく、ただの憂さ晴らしのためだったとか。それでは御用ではなく誤用です、芹沢殿困惑

 

拝観は一階だけのものでしたが二階に多くの部屋があり、見学には事前予約と別途料金が必要なのだそうです。

角屋公式サイト

 

せっかくですから、輪違屋さんも。

輪違屋は置屋兼御茶屋で、現在も営業を続けています。創業は元禄年間で置屋として始まりました。置屋とは太夫や芸妓を抱え、揚屋などに派遣する家です。舞妓さんがいるのも置屋さんですね。

二階の傘の間と紅葉の間の斬新な意匠には目を見張るものがあり、建築的にも質が高くまた古い置屋の遺構として、昭和59年に京都市指定有形文化財に指定されたそうです。

ここに芸妓の最高峰、太夫さんが居はるのですね。ポッ

 

島原

正式名は「西新屋敷」ですが、寛永18年(1641)に前身にあたる六条三筋町から移され、その移転騒動が「あたかも島原の乱の如し」と流布したことにより、「島原」と呼ばれるようになったそうです。

単に遊宴の場としてではなく、和歌俳諧などの文芸活動も盛んで江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈していたそうです。(角屋拝観受付時に「島原文芸碑めぐり」という案内パンフをいただきました。)

現在は大門をくぐったら花街!・・にはなりませんがく〜輪違屋、角屋の他はほとんど住宅地になっています。

 

Google マップ

 


渉成園(枳殻邸)再訪。

久しぶりに京都駅に近い大庭園、枳殻邸(キコクテイ)に行ってみました。受付を通ると存在感のある枝垂桜の幹と枝撃沈 冬なんだからね、お庭も寒々としているだろうなと危惧していましたら

庭園入り口辺りで良い香りがしてきました。梅の花が満開!



前回見逃してしまった煎茶席、代笠席(だいりつせき)。扉が全部閉まっていて何が何だか分かりません〜。取りあえず傍に小さな茶畑があるのが分かりました。だから茶畑半分、建物半分。(もっと他に撮りようがあるでしょ!?)モゴモゴ



回棹廊(かいとうろう)う〜ん、やっぱ冬枯れ?



印月池に浮かぶ北大島に建てられた茶室、縮遠亭(しゅくえんてい)。



塩釜(しおがま)。塩を製造する塩釜とそれを覆う塩屋に形が似ていることから「塩釜」と呼ばれるそうで、底に井筒があります。今は水が枯れていますが、縮遠亭で茶会が催される際の水源であったと思われるということです。



広さは約1700坪ある印月池のその南西に位置する茶室、漱枕居。今回は屋根に幌がかかっていて工事中のようでした。この付近で何箇所か工事をしているようで、庭園を維持するのは大変なんですね。



縮遠亭付近から眺める西方の閬風亭(ろうふうてい)。街なかの庭園なので後方にはビルがちらほら困惑



雪が積もれば非常に美しいという侵雪橋(しんせつきょう)。今日は何もない普通の冬の日がく〜 前に来たときには無かったけど、何か敷かれていました。滑り止め?



桜を眺めるために建てられた傍花閣(ぼうかかく)。傍らの蕾がこんなにふくらんでいましたニコニコ

寂しい冬でも雪が積もればそれはそれは美しいのでしょうけど、この日は全体的に冬枯れという印象でした。でも桜ほど派手ではないけれど、この季節に咲く梅や椿、馬酔木(あせび)はとても趣きがありました。散策されている方はやっぱり?少ないのでゆっくり出来ました。
拝観料はありませんが、500円の志納金を納めると立派なガイドブックをいただける。前に来たときにもらってるから、いいです〜って言って300円くらいにしてもらおうかしら?しかし 値切ることには慣れていない と受付でしばし葛藤ムニョムニョ まあガイドブックは2種類あったので、前回のではない方をいただくことにして結局500円納めました。・・でも次に訪れるときはどうしよう?(庭園維持のためにちゃんと寄付しなさい!)

渉成園-枳殻邸の(もう少〜し詳しい)記事は こちらに。

Googleマップ→

 

東寺(教王護国寺) 五重塔 立体曼荼羅

今月上旬「京の冬の旅・非公開文化財特別公開」で京都のシンボルタワー、あの五重塔がある世界文化遺産「東寺」を拝観しました。


九条通りに面した南大門。雨が降っていてレンズに雨粒が・・。
明治28年(1895年)に三十三間堂の西門を移築したものだそうです。(重要文化財)
ここから入って、伽藍は金堂・講堂・食堂(じきどう)と一直線に続きます。


最初に見たのはこの食堂です。「しょくどう」ではなく「ジキドウ」です。仏教用語?は難しいひやひや 食堂とは僧が生活の中に修行を見いだす場だそうです。建物に入るとご本尊の十一面観音菩薩と左の奥の方に焦げて損傷している四天王像がありました。かつてご本尊様は千手観音菩薩でしたが、昭和5年に火災で菩薩を護る四天王とともに損傷し、千手観音菩薩は修復されたのち宝物館に、持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王は今も現ご本尊である十一面観音菩薩を守護しているそうです。焦げていたり、腕が無くなっていたり、痛々しかったです。必死にご本尊様を護っていたのですね。

食堂から出て拝観受付を見つけました。講堂・金堂・五重塔は有料拝観です。

講堂(重要文化財)です。825年弘法大師によって着工され、835年頃に完成しましたが、自然災害や戦火により焼失、現在の講堂は1491年に再興された建物です。
堂内の壇上には大日如来様を中心とした21躯の仏像が安置されています。弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅だそうです。とにかく凄いです。これだけの仏像を目の前にするとその迫力に気圧されてしまいます。
中央が五智如来(重文)、その左右に五大明王(国宝)、五菩薩(金剛波羅密多菩薩以外は国宝)、その外側左右に四天王と梵天、帝釈天(それぞれ国宝)。
如来、菩薩様は蓮の花の上にお座りになっていますが、明王や四天王はたいてい蓮華の上に立たれていたり、邪鬼などを踏みつけたりしていらっしゃいます。平安京からずーっと悪い鬼を押さえつけて下さっているのです。しかし1000年以上も踏みつけられている邪鬼たちも国宝級の辛抱強さです。いや国宝だけど。


国宝の金堂です。1486年に焼失し、現在の建物は関が原の合戦後に再興されもの。天竺様の構造方法を用いた豪放雄大な桃山時代の代表的な建築で、細部には唐・和風の技術も巧みに取り入れています。
この中に金堂本尊の薬師如来坐像、脇侍に日光・月光菩薩像が安置されています。薬師如来様の光背には七躯の化仏を配して七仏薬師をあらわし、台座の周りには十二神将を配しています。(全て重要文化財)1486年に金堂とともに焼失した後、桃山時代の大仏師康正(こうしょう)により復興されました。
内部まで立派な建物にも驚きましたが、仏像のスケールの大きさには更に圧倒されました。


京都のランドマーク、国宝の五重塔です。
創建以来4度の焼失を経て、現在の塔は5代目にあたるそうです。1644年徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの日本の古塔中最高の塔です。
内部は初層だけ拝観できました。心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥壇に金剛界の四仏と八大菩薩を安置しています。東側の入り口から入ってまず阿閦如来、北側が不空成就如来、西に阿弥陀如来、南は宝生如来・・おや、この並びは以前に見た記憶が・・八坂の塔(法観寺)と似ていました。また、須弥壇の北側の下方が開いてガラス張りになっており、心柱を見ることができました。四天柱には金剛界曼荼羅諸尊が(ほとんど剥落していてよく分からなかった。)、壁には真言八祖像が描かれ、真言の教えが弘法大師空海に伝えられた歴史を表しているそうです。また扉の内面に護法八方天、柱に八大龍王が描かれ、天井(折上小組格天井)や長押など全面に渡って極彩色の模様で彩られています。
五重塔は仏舎利を安置するストゥーパが起源とされ、お墓に立っている卒塔婆もストゥーパからだということです。それにしても巨大な卒塔婆ですびっくり


国宝の大師堂(御影堂)です。
伽藍の西北部にあり、弘法大師のお住まいだったそうです。大師の念持仏、不動明王像(国宝・秘仏)が安置されているそうです。1379年に焼失しましたが、その翌年には再建され、さらに10年後に現在の姿となりました。後堂、前堂、中門の3つの建物で構成された総檜皮葺屋根の歴史ある建物です。
御影堂は
生身供(しょうじんく)が始まる早朝6時から閉門まで自由にお参りができるそうです。


修行大師像            池とカモさん(着水したばかり)

東寺(教王護国寺)
真言宗の総本山。平安遷都ともに建立された官寺(国立の寺院)で嵯峨天皇により弘法大師空海に託された日本で初めての密教寺院。真言密教の根本道場として栄え、中世以降は庶民の信仰も集める。毎月21日の大師の命日(ご縁日)に開催される弘法市は「弘法さん」と呼ばれ、骨董屋、古着屋、植木屋などの露店が軒を連ね、数万の参詣者でにぎわう。1994年に世界遺産として登録される。

東寺のHPはこちら

境内にある和式のトイレは扉の隙間から冷たい風が吹き込んで来てとても寒かったです〜 と最後にそっと苦情を言ってみるひやひや
 

渉成園(枳殻邸) 四季折々の景色を観たくなる。

渉成園はお東さんと呼ばれ親しまれている東本願寺の飛地境内地で、寛永18年(1641)に徳川家光から東本願寺13代宣如上人に寄進されました。東本願寺の約150m東にあり、また京都駅からも徒歩で約10分くらいです。


こちらは渉成園の東側になる河原町通りから。
河原町の五条を下がってしばらくすると、西側に長い塀が200mくらい続いています。京都に住み始めた10年前、義母にあの塀の中は何かと尋ねると「ああ、あれは きこくてい(枳殻邸)や」。え?「キコクテイ?」「KIKOKUTEI??」何だかよく分からないけど、とりあえず名前だけインプット。そんな感じでした。その頃はまだ一般公開されてなかったと思います。(大きなお世話ですが、河原町通りのこの辺北向きはスピード違反の取締りを時々やっているようですひやひや



河原町から西へも塀は長く続いています。   屋根瓦には「本願寺」。



入り口は庭園の西側、こちらが渉成園の入り口(西門)です。入って右側に参観受付。ここで庭園維持のため一人につき500円以上の寄付をします。500円以上と決まっているわけでもないようですが、500円以上を納めるとオールカラーの立派な「渉成園ガイドブック」をいただけます。



門をくぐれば正面にどーんと高石垣。色々な石が組み合わされているようで個性的な石垣でした。その下に少しだけ枳殻(からたち)の生垣がありました。昔は周囲にぐるっと枳殻の生垣があったそうで、それで「枳殻邸(きこく邸)」と呼ばれています。私は正式名称が「渉成園」であることをしばらく知らず、ずーっと「枳殻邸」だと思っていました。



高石垣に沿って角を曲がり、こちらが庭園入り口です。

宣如上人はこの地に屋敷を造営して隠居し、石川丈山の趣向を入れた作庭を行いました。



臨池亭(りんちてい)(左)と 滴翠軒(てきすいけん)(正面)
入り口を通って左を見れば、小さな滝から水が落ちる美しい池と趣のある建物。池に臨んで建つ美しさからその名がついた臨池亭と池へ落ちる小滝(滴翠)から名が付けられた滴翠軒です。この池は庭園の北西に位置します。

園内の建物は江戸期の2度の大火により焼失し、現在のものは全て明治以降に再興されたものです。



庭園の東南から大部分を占めるのはこの印月池(いんげつち)。それから池に架かる木製の反橋(中央が高く弓状に曲線を描いている橋)侵雪橋(しんせつきょう)。雪が積もると更に美しさを増すそうです。

建造物は再興されたものですが、庭園はほぼ作庭当初の状態を伝え、昭和11年(1936)に国の名勝に指定されています。



侵雪橋の向こうに京都タワーが見えます。池にも鏡のように綺麗にくっきり。造園当初には考えられなかった借景?



印月池の東に架かる回棹廊(かいとうろう)。ここを渡って北大島へ。この左(東岸)には藤棚がありました。紫藤岸と言うそうです。藤の咲く季節にここからの眺めてみたいです。



北大島の小高いところにある茶室、縮遠亭(しゅくえんてい)。かつてはこの上段の間から東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰の遠景が縮図のように見晴らせたそうです。



印月池の南西に位置する茶室、漱枕居(そうちんきょ)。この室内からの印月池の眺めは格別だそうです。

江戸時代に訪れた文人 頼山陽が庭園内の樹石や建物を「渉成園十三景」とし、その風雅な情景が「渉成園記」の中で紹介されています。因みに漱枕居は十三景の十一。



漱枕居の傍らの紫式部
「十三景」にちなんで椿、桜、睡蓮など園内の代表的な花木が「渉成園十三花」として選ばれています。紫式部は「十三花」の最後十三の花でした。ちょうど実のなる時期で庭園のあちこちでその可憐な姿が見られました。



閬風亭(ろうふうてい)。閬風とは中国の仙人が住むとされていた山の名だそうで、かつて明治天皇がご休息に使われたこともある大書院です。前面には広大な芝生の広場?が続いています。



傍花閣(ぼうかかく)。敷地内のほぼ中央くらいになるでしょうか。山門の形をし、左右の側面に山廊と呼ばれる階段の入り口がある個性的な建物です。その名のとおり桜を眺めるために建てられた建物で、周囲には桜の木が多く植えられていました。

渉成園のあるこの地は平安時代初期、光源氏の実在のモデルといわれる左大臣源融(みなもとのとおる)の六条河原院の遺蹟とも伝えられていますが、今日では否定的な説も出され、いまだ確定には至っていないということです。
塀の外から見ると木々が鬱蒼として源氏物語の夕顔の帖に出てきた某院(なにがしのいん)を想像してしまいます。
そう言えば義母が「あこは前は貴族のお屋敷やったんや」と言っていました。しかし自分の若い頃のように話すので、まあ戦前の話かな?と思っていましたら、前って1000年以上も前かい!! きっと義母が子供の頃は河原町通りを牛車が行きかっていたに違いありませんたらーっ

渉成園(枳殻邸)は京都駅の近くにありながら、散策される方は少ないのでゆっくり観賞できます。四季折々の風情を楽しみに季節が変わる毎に行ってみたい庭園です。

渉成園のスペシャルサイトはこちら東本願寺のHPからご覧になれます。

                

 

京都水族館

開館してから2年以上経って、子供(私にとっては子供だけど社会的には子供とは言えない年齢の子供)がチケット代を奢ってくれるというので重い腰を上げてやっと京都水族館に行ってきましたたらーっ


正面にどどーんと。
このマークも可愛かったからいっしょに付けとこ。


水族館とはまったく関係無いですが、すぐそばで見つけた食堂の看板が!?電信柱のいけず〜〜!


「京の川ゾーン」のオオサンショウウオの大型展示コーナーで。やっと1匹見つけて喜んでいたら、隅っこにこんなにいました。しかも折り重なって。一番下の人、重くないですかー?


顔が、顔が無いんですが?         ぷはー!
「かいじゅう(海獣)ゾーン」で。このチューブ状の水槽は隣の大きな水槽と床下でつながっていて、ゴマアザラシさんが自由に行ったり来たりしていました。


こちらも「かいじゅうゾーン」オットセイさん、授乳中。


「海洋ゾーン」の無脊椎の世界。水中を漂うトートバッグ?
たまたまこんな形になってたカブトクラゲです。


大きな水槽にいっぱいフワフワ、ミズクラゲ。
海月(クラゲ)は神秘的でした。本当に海の月のよう。


こちらも「海洋ゾーン」。京の海の水槽で、ハリセンボンが迫って来ました。
「めっちゃアホそうな人間や、見に行こ!」と思ったのかどうか。


ペンギンの下!?。ペンギンペンギンペンギン
通路を歩くペンギンさん、下から失礼!「ペンギンゾーン」で。


「わたくし、ペンギンですが、何か?」


「イルカスタジアム」です。イルカさんたちのパフォーマンスを楽しみましたニコニコ。すごく混んでいて端の方でしか見れませんでしたが、イルカはもちろん飼育員さんたちの頑張りも伝わってきましたよ。客席から京都のシンボル?東寺の五重塔が見えるそうです(この位置では無理でした)。

京都水族館は「水と共につながる命」をコンセプトに2012年に開業した日本初の人工海水を利用した内陸型水族館です。こじんまりとした感じもしましたが、色々な角度から観察できるように工夫されていてなかなか面白かったです。また、カフェやミュージアムショッピングのお店もあり、ここでしか買えない商品がたくさんあります。カフェで食べた男前豆腐店の豆乳ソフトクリームがメチャ濃くて美味しかったです。ミュージアムショッピングで買った水族館和スィーツも可愛いいだけかな?と思っていたら意外に美味しかった。それからキモ可愛い、じゃなくって愛嬌のある顔で抱き枕にしたいようなオオサンショウウオのぬいぐるみが大量にありました。

娘よ、連れて来てくれてありがとう。だけど水槽で生きいきと泳ぐお魚を見て「わぁ!おいしそう!」って連発するのはやめてください。

京都水族館のホームページはこちら
 

油小路 本光寺


門内右側にある供養塔には「伊東甲子太郎絶命の跡」と書かれています。
この石塔(墓石に見える)にもたれて伊東甲子太郎は亡くなったそうです。維新当時は表通り(油小路)にあったということです。

たまたま通りかかったのですよ。本光寺。普通だったら素通りしかねない小さなお寺。
たまたま伊東甲子太郎外数名殉難〜と書かれている石碑が視界に入ったのです。
そういえばここは油小路。
傍にいたおっちゃんが、いえ、傍にいらした男性が「開けましょうか?」とお寺の門を開けてくれました。「え?いいんですか?おおきに。」と中に入って、せっかくだから携帯で撮影。
その上「資料を持ってきてあげましょう」と、伊藤甲子太郎と本光寺、油小路の変のプリントを3枚差し出され、「おおきに〜」とお礼を言うと「100円いただいてるんやけど。」
・・・?・・うっかり100円払っちゃいました。先に言って下さい! いえいえ、貴重な資料をありがとうございました。ご町内の方でした。頑張ってますね。京都市観光課や油小路町内会で作られたそうです。

伊東甲子太郎さん・・色白で面長な顔立ち、性格は温和にして知的、北辰一刀流の使い手であると共に、国学、和歌にも精通すると100円払ったプリントに書かれていました。出来杉君!?本光寺・・新撰組から分離し、御陵衛士を拝命した伊東甲子太郎が近藤勇暗殺の計画をしているという情報に基づき、新撰組隊士に襲撃され絶命した場所です。
お寺の正面から撮るの忘れてた

御陵衛士屯所跡 月真院

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